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精神疾患

【新説】WAIS-IVの捉え方について

私のWAIS-IV(ウェクスラー式知能検査)の4つの群指数を見ると、言語理解(VCI)とワーキングメモリ(WMI)が高く、知覚推理(PRI)が少し低く、処理速度(PSI)がかなり足を引っ張っている状態である。

「足を引っ張る」という表現だとネガティヴに響くが、例えばこう考えてみるのはどうだろう。

WAIS-IVのスコアを擬人化し、4人1組の「4人5脚」競争のチームだとする。この1チームが「私」(FSIQ)である。チーム編成は、

・大人2人(言語理解、ワーキングメモリ)

・中学生1人(知覚推理)

・小学生1人(処理速度)

である。想像してみよう。

大人に混じって、小さな身体と未発達の体力で奮闘する中学生と小学生。チームに迷惑をかけるまい・少しでもチームに貢献しようと必死に走る姿は、とても「健気」に映る。ネガティヴに捉えようという気など最早微塵も起きない。ただただ応援したくなってしまう。

こう考えると、自分の弱点を否定的にではなく、前向きに捉えることができそうですよね。

…WAIS-IVを4人5脚のチームだとみなすのは、我ながら良い例えだったなー(自画自賛)

蛇足ですが、本当の4人5脚ならば、配置・並び順はとても大切ですよね笑

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精神疾患

自己中心的であることと「自閉」的であること。

私は、昔から自分の話をしがちである。自覚はあるのだが、なかなかやめられない。とはいえ人間は、基本的に自分の話をしたがる/聴いてほしがるものだけれど。

自分のことばかり話したり、自分だけを優先して他者を顧みなかったりすることを、私たちは否定的なニュアンスを込めて「自己中心的」と評する。

私は長く自分が自己中心的だと信じて疑わなかったが、最近、私は自己中心的というよりむしろ「自閉」的なのではないかと考えるようになった。実際、私にはASDという診断が付いている。

確かに、「自閉」という言葉は(ASD当事者にとってすら)理解しにくいものだし、私とて「自閉」なる訳語が、必ずしもその実態を表していないものだとされていることは、さすがに知っている。

私が自分のことばかり話してしまうのは、「自閉」傾向があるために、自分および、自分と密接な関わりのある他者(つまり、「自分の延長」とか「ほぼ自分」、「自分の一部」などとみなされるもの)に対してしか想像力が働かないからではないか?「自分」および「自分の延長/ほぼ自分/自分の一部」の外側にある人や物・事が、「自閉」傾向のある私にとっては認識できないもの・存在しないものであるからこそ、私は自分の目に見えるもの・自分にとって存在するとみなせるものの話だけを、要するに、「自分」の話だけをしてしまうのではないだろうか?

そして、「自閉」についてよく知らない人や定型発達の人の目には、そうした私のような話し方が「自己中心的」に映るのではないか?それらの人には、「自己中心的」であることと「自閉」的であることは、きっと殆ど同じに見えるのだろうから。

上記は、精神医学者でも心理学者でもない、ASDの一当事者の私見である。ただ、少なくとも私にとっては重要なアイデアの萌芽だと判断したので、こことGRAVITY(通話アプリ)の投稿欄に書き留めておく。このテーマについては、今後、このブログにて少しずつ掘り下げていくつもりだ。

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精神疾患

“自己嫌悪 責められるのは 社会です” 或いは「病む権利」について

今回は川柳風に五・七・五でタイトルを付けてみました。totteruです。

精神疾患を長くやっていると、自己嫌悪に陥ることが多くあります。朝思った時間に起きられなかったり、やるべきことがあっても手を付けることさえできなかったり…。要するに自分の身体が自分の言うことを聞かないということなんですが、それって実はもの凄いストレスなのです。しかも何年も続きますし。

そういう時に、我々は「○○もできない自分は何て駄目なんだ!」等と思いがちです。私もそう考えることが多かった。できないことがあって辛い、という気持ちを素直に受け止めてやることはもちろん大事なのですが、恐らくもっと大切なことは、嫌悪のベクトルの向く方向の見直しでしょう。つまり、病気でできないことがあった時に、できないことがある自分を責める、ということが果たして正しいのか、ということです。

そういう時、こう考えるのが良いのではないでしょうか。つまり、「病気をしている以上、できないことがあるのは当たり前だ。体調が悪くてできないことに関して、他人も、自分でさえも、自分を責めることはできない」と。

人間は、自らの健康を維持・増進する必要がありますが、それと同様に「病む権利」も持っているはずです。不摂生をした結果の体調不良は、時には責められるかもしれませんが、その場合とて体調の悪い本人(患者)は、最大限に労わられなければなりません。ここで言う「病む権利」とは、病気になっても、堂々と病人として振る舞う権利、と言い換えて良いでしょう。病気になれば、生活上の制約は増えて当然ですし、できないことや周囲の手を借りなければできないことも多くなるでしょう。それを恥じたり、申し訳なく思う必要は本来ない、と言いたいのです。

「病む権利」を行使して堂々と振る舞っても、やっぱりしんどいし、できないことはできないままだ、と嘆く方もあるでしょう。そうしてまた自己嫌悪に陥ってしまうのではないでしょうか。病気で不自由することの責任を本人に帰して自己嫌悪に陥るって、とても辛いことだと思うのです。

私は、病気になったこと自体に良し悪しはないけれど、病気で不自由をするのは病人自身の責任ではなく、社会の責任だと考えます。社会と言っても、日本政府の社会福祉政策の問題、という話よりも(勿論そういう側面もありますが)、人間の集合体という意味での「社会」の責任を、今は問いたいのです。この「社会」は「コミュニティ」と言い換えられるでしょう。

私たちは、個々人が複数の、それも多種多様なコミュニティに属しています。家族や学校、職場や地域社会、都道府県や国家もその例でしょう。東アジア文化圏とか、人類社会まで話を広げても良いでしょう。肝心なのは、それらがちゃんと機能するセーフティーネットを持っているか、病人を助け支えてくれるか、ということであるはずです。

例えば、totteruは家族と2人暮らしですが、その家族はtotteruの病歴をよく知っているにも関わらず、先日totteruが病気のことでちょっと話を聞いてほしい、と頼んだら、突然不機嫌になって面倒くさそうに「その話は何分かかるの?」と言ったのです。当然話を聞いてもらう気は失せてしまったのですが、これは「家族」というコミュニティが機能していない一例です。それともただの愚痴でしょうか。

要するに、病気で辛い思いをしている人が、自分を責めずにいられる社会になってほしいと思うのです。病気をしても堂々と療養生活ができ、当たり前のように「辛い、苦しい、しんどい」と言ってよい社会。誰もが、何の見返りも求めずに病人を助けてあげられる社会。病人が病人として、ちゃんと居場所を持てる社会。そういう社会をつくっていくために、微力ながら尽力したいtotteruです。私が病気をした意味は、そこにあると信じています。

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精神疾患

病時の言動に現れるのは、その人の本質ではなく、病気に助長された欠点のみである。

病時の言動に現れるのは、その人の本質ではなく、病気に助長された欠点のみである。

…といきなりぶち上げられても困りますね。totteruです。

随分と久しぶりの更新になってしまいました。その理由は追々書くとして、今日のテーマと結論は、タイトルの通りです。

勿論、これだけでは何のことやら分かって頂けないでしょうから、以下にご説明致します。

「病時」と言いましても、双極性障害のtotteruの書くことですから、病気一般に罹患した時を指す訳ではありません。双極性障害をはじめとする精神疾患時のことだ、とご理解下さい。さて、そうした時の言動には、残念ながら、常軌を逸したものが本当に多いです。精神的及び肉体的な自傷行為や、他人を傷付ける暴言・暴力など…。そして、これらの言動を見て、「あいつは自分を責めてばかりいる馬鹿な奴だ」とか「暴力的な言動を取る危険な輩だ」などの評価を下すことを、多くの場合、私共はためらいません。何故か、病時の言動にその人の本質や本性が見えるものだと、私共は信じ切っています。

しかし、本当にそうなのでしょうか。

実際totteruも、つい最近まで「病時の言動にはその人の本質のみが現れる」とばかり考えていました。そして、過去(もう10年にもなります)に躁状態の自分が吐いた、他人の身体的特徴を論難する無数の罵詈雑言を思い返しては、「私は、他人をあのように言ってしまう、そういう人間でしかないんだ」と、自らを何度も何度も強く蔑みました。

でも、最近、亡母のある言葉を思い出した時に、totteruの考えは大きく変わりました。
それが、具体的にいつのことだったかまでは忘れてしまいましたが、母の病気が大分進んでいた頃のことだったと記憶しています。一度だけ母に頼んでカウンセリングに付いて来てもらって、カウンセラーさんと話した時のことでした。totteruが、ある相手と毎日何度も怒鳴り合いをし、それが数週間続いた、という話をし、これは躁状態だったのか否か、と言うと、普段は穏やかな母が珍しく強い口調で、即座に、それは病気のせいに違いない、と言ってくれたのです。「この子はそんなことをする子じゃありません」、とも。

ただの親馬鹿発言と取れなくもありません。
また母は、怒鳴り合いの現場に居合わせた訳でもありません。実情を知らないのです。
しかし、totteruはとっても嬉しかったのですね。

とは言え、totteru自身が自分を「そんなことをする子じゃない」と信じられるまでには更に数年の歳月を要しました。母のように強く強く信じることはまだ出来ないにしても、ある程度自分のことを肯定できるようになった時、躁状態で錯乱して暴言を吐きまくっていた過去の自分を、自分の本質を体現したものではなく、端的に言えば「病気でおかしかった自分」と考えられるようになったのです。

そこから考えを進め、自分の長所が病気のために鳴りを潜めて、或いは長所は病気に奪われて、短所・欠点ばかりが、目立ったり病気に付け込まれて助長されたりしてしまうのではないか、と考えるに至りました。

これでようやくタイトルの解説が出来ましたが、上記は都合の良い考えだ、とか、虫が良過ぎる等といった声もあろうかと思います。病気のせいでおかしくなった等というのは無責任で、病時にこそ、その人の本質が出るのだ、とお考えになる方も或いはあるかもしれません。

どちらの考えがどの理由のために正しい、等とはtotteruには言えません。
しかし、当事者としてtotteruが申し上げたいのは、こういう考え方をして自分の暗部を自分からしっかり確実に切り離してしまわないと、生きていけない人が確かにいる、ということです。

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精神疾患 読書

精神疾患と読書

totteruです。

今日は、精神疾患者としての私の、読書との関わり(発症後のそれ)を書いてみようと思います。
同じ病に苦しむ方の参考に少しでもなれば嬉しい限りです。

さて、自己紹介の頁にも書きましたが、私は研究者志望です。
双極性障害のために中退した大学に再入学し、大学院に進んで研究者になりたいのです。
同級生より10年以上勉強が遅れている今でも、本気でそう考えています。

ところが、ここに大きな問題があります。
主に精神疾患のために、読書が出来ないのです。本が読めずに困っています。

私は文系で、特に社会科学と呼ばれる分野の専攻なので、とにかく読書量が求められるのですが、精神疾患の患者さんならおわかりでしょうけれど(そうでもないでしょうか)、活字を読んで批判的に検討する、といった高度な頭脳活動を行えるほど、脳の状態に余裕がないのです。

それどころか、2~3年前までは、活字が追えませんでした。
これはどういうことかと言いますと、例えば日本語の文章を読んでいて、それが縦書きだとして、文章を構成する行(ぎょう)と行とが交錯して見える状態だったのです。
目はちゃんと見えていましたので、脳が正しく認知出来ていなかったのでしょう。
これでは内容を読み取るどころではありません。
(その割に、その時期にC.ギアーツなど読んでいました。本を選ぶ能力ゼロですね。当然、全く頭に入りませんでした。)

その時期は、何とか読書の能力を取り戻さなければならない、と焦りまくっていました。
かなり色々な本を選んできてはトライした記憶があります。
ですが、小説や物語は、見たくもありませんでした。病気になる前は大好きでよく読んでいたのですが、何故か興味が全く湧きませんでした。登場人物の感情の揺れ動きや、心理描写についていける気がしなかったからだろうと思います。そういうものをこそ書くのが、小説であり物語なのでしょうけれど、こちらは自分の感情だけで手一杯というか、手一杯どころでは全然利かない状態でしたから、他人の感情になど付き合っていられませんでした。

時々は、読めている感触がある時があったのですが、今思えば感触だけで、実際には読めて(理解できて)いなかったのでしょうね。とはいえ、感触だけでも得られたというのも、行同士が交錯する状態だったことを考えると、何とも不思議です。

次のような読み方をしていた時も、上記の時期の中にありました。
今考えると、ひどいうつ状態だったのでしょう、1見開き当たり10~20箇所の文言を抜き出しては、自分自身の在り方や来し方とひき比べ、
「著者はこういう発想をしているが、自分にはその発想はできるか。多分無理だろう。何故無理なのか…。ああでもない、こうでもない!!!」と延々と考え込んだり、
「こういう表現を自分は使えるか。出来っこない。私はやっぱり能力のない人間だな!!!」と自分を責めたりしていました。
これは、今ではある種の自傷行為にも思えます。辛かったです。

現在はどうなのかと言いますと、やはり読書はもの凄くしんどいです。
読みやすい軽い新書などを含めて、年間30冊くらい読むのがやっとです。
当然難解な論考や英文などは少しも読めません。
(自慢ではなく、どれくらい読書の力が落ちたかを示す例としては、大学3年の時には、レポートを書くために一晩徹夜して英文200頁を読んだこともあったのですが(さすがに精読ではありませんが)、今では英文は目がチカチカするだけで全く受け付けません。)

ただこの先、研究者になるにはどうしても読書能力を取り戻さねばなりません。
試行錯誤は続きます。

totteruでした。

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その他 精神疾患

「大丈夫」ってどういう意味?

totteruです。

長く病気をしているので、「大丈夫?」と聞かれた回数はとても多いです。
全く自慢にはなりませんが。

色々な人がそう聞いてくれます。
本当に親身になって心配してくれる人から、
素直に「大丈夫じゃない。しんどい」と答えるとキレ出す人まで…。

それはさておき、少し考えてみると、この「大丈夫?」という質問に答えるのは、
実は意外と難しいことであることに気付きます。

というのは、この語の定義が明確でないからです。
どの人が、どの状況で用いるのか、によって「大丈夫」か否かの基準は大きく異なります。

私もへそ曲がりなので、ある一時期は「大丈夫?」と聞かれると、
「大丈夫の定義による(から何とも言えない)」と答えていました。
こんな病人は嫌ですね。

それでも、「大丈夫」という語は、かなりの幅を持つ言葉で、それ故うまく遣うのが難しい、と、やはり考えてしまいます。
あまり深刻に考えずに、気軽に聞いて下さる人が多いのでしょうが、
私は、極力遣わないようにしています。
なるべく、別の、具体的な表現に言い換えるように心がけています。

と言うのは、健康な人と、病人(勿論、精神疾患者以外も)では、「大丈夫」の指す内容が違うからです。
曖昧な質問をぶつけると、しんどくなってしまう人もいます。
私もそうです。

病気の範囲内ではあるけれど、つまり、全くの健康体ではないけれど、何とかやっていけるよ、
という「大丈夫」もあるのです。

下手に「大丈夫」と答えて、健康な人のペースで動かされたりすると、命にかかわります。

私も、希死念慮が出て遺書を書き、首に紐を巻き付けて…
というところまでは経験がありますので、
うつ状態の極度の辛さを持て余して、「もう死にたい」とか、
「死ねば「大丈夫」になれるな」と思う気持ちが良く分かります。
自死の結果の「大丈夫」は、多くの人が聞いてくれる「大丈夫?」とは全く意味が違いますよね。

続いては、疑問文の「大丈夫?」ではなく、
「大丈夫!」という肯定文の激励や、決めつけについても考えてみます。

私個人の話をすると、「大丈夫だ」と決めつけられると、
今のしんどさを完全に無視されたかのように感じてしまいます。

「しんどくても、〇〇だから大丈夫」のようにせめて言ってもらえれば、
つまり、根拠のある言葉かけならば嬉しく、励ましも「身に付く」感じがします。

「しんどい」部分の話をしっかり聞いて共有してくれれば、
一時的にでも病気という重荷を負うのを手助けしてもらえますし、
病気という暗い森の中を一緒に手を携えてさまよってもらえますので、
「さあ、大丈夫になってやるぞ」という前向きな気分になれなくもないですが、

「とにかく大丈夫だ」と言われると、
「あなたは私の病気の何を知った上で言っているの?」と聞きたくなってしまいます。

それに、「とにかく大丈夫だ!」と決めつけたがる人ほど、
あくまで私の経験上の統計ですが、
病人の心配をしていません。

「大丈夫」だと決めつけて病気の話題を終わらせ、自分の用事をしたいのですね。
そういう人は、意外に多いように思います。

以上、少し嫌な感じの終わり方ですが、
気候が良くなってきて「大丈夫」度合い上昇中のtotteruでした。