カテゴリー
その他

【レシピ001】ピーマンのポン酢漬け

現在、私は誤診が晴れた後の体調管理の一環として、オーソモレキュラー療法を行っています。オーソモレキュラー療法そのものについて及びそれを導入するに至った経緯については別稿に譲りますが、毎日の食事を工夫する中で、私は少しずつ料理を楽しむようになってきました。その中で思い付いた(考案した)レシピのいくつかを備忘録がてら投稿します。記念すべき第1回目は、「ピーマンのポン酢漬け」です。

私は夏野菜が大好きで、毎年、夏になると複数の野菜を自宅で漬けているのですが、その中でも出色なのがこの「ピーマンのポン酢漬け」です。何人かの知人にもレシピを紹介したところ、概ね大好評でした。

一応、私のオリジナルレシピのつもりですが、この程度のものは、誰かがとっくに思い付いているだろうとも思っています。

●ピーマンのポン酢漬け

1.ピーマンを軽く水洗いした後、へたと種を取り除き、1片あたり3~4切れに手で割る。包丁で切っても構わないが、手で割った方が断面が複雑になり、ポン酢の染み込みが良くなる。

2.耐熱容器に1.を入れ(蓋をした方が良いと思います)、色が少し悪くなるまでレンジで加熱する。加熱の目安時間は、500Wで4~6分です。

3.2.が熱いうちにポン酢をかけて軽く混ぜる(ポン酢の量は、容器の底に少し溜まるくらい)。この時に鰹節をかけても美味しい。

4.3.を、粗熱を取った後に冷蔵庫に入れて半日ほど漬ける。ピーマンにポン酢が染みて茶色くなったら出来上がり。私は、冷蔵庫で保存して、2~3日で食べ切るようにしています。冷蔵庫から出して器に盛り、冷製おかずとして食べると美味しいです。

上記の通り、私は夏にきゅうり、茄子、オクラ、にら(これは真夏というより初夏までが旬ですが)等を漬けていますが、野菜の漬け物って醤油味ばかりになってしまうんですよね。何か醤油以外の調味料で漬けられないかと考えていた時に、「ピーマンならポン酢と相性が良さそうだ」と試してみたら大正解で、ここ数年は我が家の夏の定番になっています。暑い夏に是非どうぞ。

作ってくださった方は味のご感想をお願いします。

カテゴリー
その他

人と人とのつながりは勿論大切だ。でも、つながり方は一つではない。

新型コロナウイルスの影響で、多くの人が外出を控えたり、テレワークを行ったりする中、人と人とが直接会って、つまり物理的に対面して、関わることの大切さが言われるようになってきました。

それに関して異議を唱える気は全くありません。

ただ、一つ気になることがあって、それは2011年3月の東日本大震災後の世論に対しても感じたことなのですが、人と人とのつながりを評価し直す風潮の中で、「昨今の人間関係よりも、〇〇〇の人間関係の方がより優れている」とか、もっと言えば「正しい対人関係はこれだ」といった、人間同士の「つながり方」をも評価するような言説が多いように思うのです。そして、それらの言説が説く「良い」つながり方は割合一様で、悪く言えば多様なつながりのあり方をどこか毛嫌いしているように見えます。

色々な人が色々な形で社会を作っているのです。色々な関係があって良いはずです。
あからさまに間違っていたり、問題を含んでいたりしない限りにおいては。

多くの場合、年長の男性が、きつい言葉で、或いは時には手を出して、「あるべき」人間関係を「教えて」いる場面を見たことのある人も少なくないはずです。(これを彼らは「躾」とか「教育」とか呼ぶようです)。

具体例のない文章になってしまいました。
読みにくいかもしれませんが、わかりにくくはないはずです。

totteruでした。

カテゴリー
その他

「異議なし」という表現について

totteruです。

今日は、「異議なし」という表現について考えてみたいと思います。

この表現は、父親が学生運動をしていた私にとって、
学生運動自体をよく知らないながらも、
やはり学生運動を想起させるものなのです。

「我々は、断固として、〇〇〇するー!」
「異議なーし!」
「異議なーし!」
…のように使われていましたね。

今でも、団塊の世代で、この表現を使う人は少なくない気がします。

でも、この表現は、変な言い方かもしれませんが、
「素直でない」表現のように思えてなりません。

では、なぜ「素直でない」表現だと思うかをご説明致します。

「賛成!」という表現ではなぜいけないのでしょうか。
これが最大の理由です。

・「賛成」は、(主に演説の内容を)積極的に評価し、肯定する表現でしょう。

・しかし、「異議なし」は、異議こそないものの、
強く賛同する訳ではなく、止むを得ず従う、
というようにも聞こえます。

ここまで読んで頂ければお分かりでしょうが、私は論理的思考に弱いです。
「異議なし」ならば、「否定の否定」で全肯定ではないか、
と思われる方もいらっしゃるでしょう。

さて、全肯定か否かは一旦おいて、次の言葉を考えてみましょう。
totteruの父親が、学生運動とは無縁のあることについて言った発言からです。

「悪くはないけど、良くもない」

この発言は、私には、上記で「素直でない」と評した「異議なし」と言う表現に
極めて近いものに聞こえるのです。

というのは、この父親の発言をもっと具体的に言い換えると、
「反対意見こそ特にないけれど、さして良いとも思わない」になると思うからです。

この発言がもし、
「良くはないけど、悪くもない」
であったなら、評価する対象を、少なくとも肯定的に受容している感じはしますが、

「悪くはないけど、良くもない」では、
「今は反対しないが、いずれ折を見て潰し、俺の意見を通してくれる」のようにもとれませんか。
考え過ぎでしょうか。

今回は、最後で少し論理が飛躍しました。
私の論理的思考力の弱さも露呈しましたし、話も大幅にまとまりを欠きました。

これ以上書くと、更に混乱しそうなので、
今日はここまで。

totteruでした。

 

カテゴリー
その他 精神疾患

「大丈夫」ってどういう意味?

totteruです。

長く病気をしているので、「大丈夫?」と聞かれた回数はとても多いです。
全く自慢にはなりませんが。

色々な人がそう聞いてくれます。
本当に親身になって心配してくれる人から、
素直に「大丈夫じゃない。しんどい」と答えるとキレ出す人まで…。

それはさておき、少し考えてみると、この「大丈夫?」という質問に答えるのは、
実は意外と難しいことであることに気付きます。

というのは、この語の定義が明確でないからです。
どの人が、どの状況で用いるのか、によって「大丈夫」か否かの基準は大きく異なります。

私もへそ曲がりなので、ある一時期は「大丈夫?」と聞かれると、
「大丈夫の定義による(から何とも言えない)」と答えていました。
こんな病人は嫌ですね。

それでも、「大丈夫」という語は、かなりの幅を持つ言葉で、それ故うまく遣うのが難しい、と、やはり考えてしまいます。
あまり深刻に考えずに、気軽に聞いて下さる人が多いのでしょうが、
私は、極力遣わないようにしています。
なるべく、別の、具体的な表現に言い換えるように心がけています。

と言うのは、健康な人と、病人(勿論、精神疾患者以外も)では、「大丈夫」の指す内容が違うからです。
曖昧な質問をぶつけると、しんどくなってしまう人もいます。
私もそうです。

病気の範囲内ではあるけれど、つまり、全くの健康体ではないけれど、何とかやっていけるよ、
という「大丈夫」もあるのです。

下手に「大丈夫」と答えて、健康な人のペースで動かされたりすると、命にかかわります。

私も、希死念慮が出て遺書を書き、首に紐を巻き付けて…
というところまでは経験がありますので、
うつ状態の極度の辛さを持て余して、「もう死にたい」とか、
「死ねば「大丈夫」になれるな」と思う気持ちが良く分かります。
自死の結果の「大丈夫」は、多くの人が聞いてくれる「大丈夫?」とは全く意味が違いますよね。

続いては、疑問文の「大丈夫?」ではなく、
「大丈夫!」という肯定文の激励や、決めつけについても考えてみます。

私個人の話をすると、「大丈夫だ」と決めつけられると、
今のしんどさを完全に無視されたかのように感じてしまいます。

「しんどくても、〇〇だから大丈夫」のようにせめて言ってもらえれば、
つまり、根拠のある言葉かけならば嬉しく、励ましも「身に付く」感じがします。

「しんどい」部分の話をしっかり聞いて共有してくれれば、
一時的にでも病気という重荷を負うのを手助けしてもらえますし、
病気という暗い森の中を一緒に手を携えてさまよってもらえますので、
「さあ、大丈夫になってやるぞ」という前向きな気分になれなくもないですが、

「とにかく大丈夫だ」と言われると、
「あなたは私の病気の何を知った上で言っているの?」と聞きたくなってしまいます。

それに、「とにかく大丈夫だ!」と決めつけたがる人ほど、
あくまで私の経験上の統計ですが、
病人の心配をしていません。

「大丈夫」だと決めつけて病気の話題を終わらせ、自分の用事をしたいのですね。
そういう人は、意外に多いように思います。

以上、少し嫌な感じの終わり方ですが、
気候が良くなってきて「大丈夫」度合い上昇中のtotteruでした。

カテゴリー
その他

自己紹介とブログの説明

はじめまして。totteruです。
今日は、自己紹介と、このブログの説明を、以下に簡単に致します。

1.自己紹介:

私は、関西在住の双極性障害(おそらくⅠ型)の30代男性です。広汎性発達障害とも診断されています。
中学2年時より学校に行きにくくなり、高校も出席日数ギリギリで卒業しています。
大学は関東地方の私立大学なのですが、1年時に双極性障害を発症し、2回留年しています。
そして、6年生の春に最初の自殺未遂をして入院し、実家のある関西に帰って来て、現在まで10年近く療養生活を送っています。

さて、今後追々書いて参りますが、私は研究者志望です。
病気が良くなり次第、大学に戻って研究を続けたいと考えています。
大学卒業後は大学院に進んで研究職に就きたい、と強く思っています。
目標を掲げていた方が、療養生活もスムーズにいきますしね。
とはいえ、あまり先のことは考え過ぎないようにもしています。

2.ブログの説明:

このブログには、主に、双極性障害と広汎性発達障害のために経験した諸事を書くつもりです。
自分の頭の整理も兼ねて書くのですが、一つ注意して頂きたいことがあります。

私は、精神科医でも公認心理師でもなく、更には患者の家族でも友人でもありません。
実を言うと、精神疾患に苦しんでいる知己がいるにはいるのですが、ここで私が申し上げたいのは、このブログを、あくまで私は一当事者として書きたいのであって、医学的な事実や、根拠のある話ばかりでは必ずしもない、ということです。
ただし、参考資料がある場合、出典は基本的に記載します。

このブログを書く理由は、大きく分けて2つです。
1つ目は、ブログという匿名のメディアに、私自身の経験や病気に対する考え・感じ方を、とりあえず形にして吐き出したい、という気持ちが大きくあるからです。
2つ目は、やはり、病気・障害のことを少しでも多くの人に知ってほしいという思いがあるからです。

決して、感動は求めません。勇気や希望を与える気は、更々ありません。
そういう発想は、はっきり言って嫌いです。

今日はこれ以上詳しくは書きませんが、精神疾患や精神障害などについて、色々と多くの記事を書こうと考えております。

ただ、病気のことだけでなく、気軽に読める記事も多数書く予定です。
簡単な書評や、その日の出来事・思い付き、あれこれ徒然なるままに書きます。
これらを書く理由は、無趣味な私ですので、ブログを趣味にしようという下心です。

不定期更新にしていますのは、ブログを書けるか体調と相談しつつ生活しているからだとお考え下さい。

では、今日はこの辺りで。
totteruでした。