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精神疾患

自己中心的であることと「自閉」的であること。

私は、昔から自分の話をしがちである。自覚はあるのだが、なかなかやめられない。とはいえ人間は、基本的に自分の話をしたがる/聴いてほしがるものだけれど。

自分のことばかり話したり、自分だけを優先して他者を顧みなかったりすることを、私たちは否定的なニュアンスを込めて「自己中心的」と評する。

私は長く自分が自己中心的だと信じて疑わなかったが、最近、私は自己中心的というよりむしろ「自閉」的なのではないかと考えるようになった。実際、私にはASDという診断が付いている。

確かに、「自閉」という言葉は(ASD当事者にとってすら)理解しにくいものだし、私とて「自閉」なる訳語が、必ずしもその実態を表していないものだとされていることは、さすがに知っている。

私が自分のことばかり話してしまうのは、「自閉」傾向があるために、自分および、自分と密接な関わりのある他者(つまり、「自分の延長」とか「ほぼ自分」、「自分の一部」などとみなされるもの)に対してしか想像力が働かないからではないか?「自分」および「自分の延長/ほぼ自分/自分の一部」の外側にある人や物・事が、「自閉」傾向のある私にとっては認識できないもの・存在しないものであるからこそ、私は自分の目に見えるもの・自分にとって存在するとみなせるものの話だけを、要するに、「自分」の話だけをしてしまうのではないだろうか?

そして、「自閉」についてよく知らない人や定型発達の人の目には、そうした私のような話し方が「自己中心的」に映るのではないか?それらの人には、「自己中心的」であることと「自閉」的であることは、きっと殆ど同じに見えるのだろうから。

上記は、精神医学者でも心理学者でもない、ASDの一当事者の私見である。ただ、少なくとも私にとっては重要なアイデアの萌芽だと判断したので、こことGRAVITY(通話アプリ)の投稿欄に書き留めておく。このテーマについては、今後、このブログにて少しずつ掘り下げていくつもりだ。

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