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寂しさを抱きしめて、或いはひとりで孤独に向き合うこと

11月も半ばになると、関西も結構寒いです。気の合わない弟と二人暮らしで、お付き合いする相手もいない私ですので、毎日寂しさを抱えて暮らしています。

私はもう10年以上、精神科に通院していますので、体調の悪さも孤独を募らせます。

孤独と孤立との違いだとか、自分で選び取った孤独か否かなど、孤独という言葉を考える際には論点が多くあるように思います。

今回私が考えたいのは、表題の通り、同じ方向を向いて「寂しいね」「うん、哀しいね」と言い合ってくれる相手がいない時に、それでも「寂しい」という自分の感情を優しく自分の二本の腕で抱きしめて慈しむことを、自らの意思で(或いは、意志で)選び取ること、についてです。その時に見える景色は、どのようなものなのでしょうか。

人間は、寂しい生き物だと思います。寂しいからこそ、深い孤独を抱えているからこそ、人間で、または人間的で、あることができるのでしょう。

孤独をしっかりと抱きしめることができた人だけが、大切な人と精神的に強い紐帯をつくることができるのだ、と言う人もいます。確かにそうかもしれません。

でも、人と繋がるための寂しさって、何だか嘘くさく感じてしまいます。人と人とが繋がることがとても素晴らしくかけがえのないものだと、やっと最近になってやっと分かった私ですが、それでも、人と人とが結び付くことに至上の価値を置く考え方には、はっきり言って疑問ばかりを感じてしまいます。

孤独は、孤独のためにあるのでしょう。人と繋がるためにあるとは、必ずしも言えないと思います。

一晩語り明かしても、何度身体を重ねても、人は、ひとりです。

強く抱き合っても、腕から漏れた背中は寒いのです。

私は、悲観的に語っているつもりは全くありません。

優しい孤独もあるでしょう。辛い孤独も、切り裂かれるような痛みを伴う孤独もまた、あるでしょう。

孤独の先を、一人になったその先を、私は見たいのです。多くの場合、人は孤独の厳しさや心地よさに溺れてしまいます。孤独の寂しさを抱え切れないのです。

孤独に対して、勝負を挑む必要はありません。孤独との間に勝ち負けという関係を発生させることは賢明ではありません。

私は、孤独を抱きしめます。寂しい二本の腕で、持てる限りの慈愛でもって、寂しさを、自分の愚かな感情を、抱え続けて歩いて行きます。道の途中で、重たいこの荷物を一緒に運んでくれる人とも、一時的には道連れになるでしょう。拒む必要はありません。でも、結局ずっと一人なのです。

哀しい道を、私は歩きます。そこに不幸はありますが、孤独が故に不幸なのではないのです。

寂しさに耐え切れず、泣いてしまうこともきっとあるでしょう。今までもありました。これからも、たくさんあります。でも、泣いてもひとりです。泣き止んだら、また立ち上がってひとりでゆくのです。

孤独の底から、私は叫びます。繋がりや連帯を求めて。でも、叫ぶ私は、ひとりです。ひとりで叫ぶのです。

自らの孤独と向き合う他の人々との共鳴を求めてしまうのは、私の幼さなのかもしれません。孤独の大地を掘り下げるうちに、私は幾人かの同志と知り合うでしょう。ただ、彼ら/彼女らとの関係も、当然永続する訳ではありません。また、どれだけ深く交わっても、背中の寒さは消えません。

それでいいのです。それが、いいのです。