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精神疾患

“自己嫌悪 責められるのは 社会です” 或いは「病む権利」について

今回は川柳風に五・七・五でタイトルを付けてみました。totteruです。

精神疾患を長くやっていると、自己嫌悪に陥ることが多くあります。朝思った時間に起きられなかったり、やるべきことがあっても手を付けることさえできなかったり…。要するに自分の身体が自分の言うことを聞かないということなんですが、それって実はもの凄いストレスなのです。しかも何年も続きますし。

そういう時に、我々は「○○もできない自分は何て駄目なんだ!」等と思いがちです。私もそう考えることが多かった。できないことがあって辛い、という気持ちを素直に受け止めてやることはもちろん大事なのですが、恐らくもっと大切なことは、嫌悪のベクトルの向く方向の見直しでしょう。つまり、病気でできないことがあった時に、できないことがある自分を責める、ということが果たして正しいのか、ということです。

そういう時、こう考えるのが良いのではないでしょうか。つまり、「病気をしている以上、できないことがあるのは当たり前だ。体調が悪くてできないことに関して、他人も、自分でさえも、自分を責めることはできない」と。

人間は、自らの健康を維持・増進する必要がありますが、それと同様に「病む権利」も持っているはずです。不摂生をした結果の体調不良は、時には責められるかもしれませんが、その場合とて体調の悪い本人(患者)は、最大限に労わられなければなりません。ここで言う「病む権利」とは、病気になっても、堂々と病人として振る舞う権利、と言い換えて良いでしょう。病気になれば、生活上の制約は増えて当然ですし、できないことや周囲の手を借りなければできないことも多くなるでしょう。それを恥じたり、申し訳なく思う必要は本来ない、と言いたいのです。

「病む権利」を行使して堂々と振る舞っても、やっぱりしんどいし、できないことはできないままだ、と嘆く方もあるでしょう。そうしてまた自己嫌悪に陥ってしまうのではないでしょうか。病気で不自由することの責任を本人に帰して自己嫌悪に陥るって、とても辛いことだと思うのです。

私は、病気になったこと自体に良し悪しはないけれど、病気で不自由をするのは病人自身の責任ではなく、社会の責任だと考えます。社会と言っても、日本政府の社会福祉政策の問題、という話よりも(勿論そういう側面もありますが)、人間の集合体という意味での「社会」の責任を、今は問いたいのです。この「社会」は「コミュニティ」と言い換えられるでしょう。

私たちは、個々人が複数の、それも多種多様なコミュニティに属しています。家族や学校、職場や地域社会、都道府県や国家もその例でしょう。東アジア文化圏とか、人類社会まで話を広げても良いでしょう。肝心なのは、それらがちゃんと機能するセーフティーネットを持っているか、病人を助け支えてくれるか、ということであるはずです。

例えば、totteruは家族と2人暮らしですが、その家族はtotteruの病歴をよく知っているにも関わらず、先日totteruが病気のことでちょっと話を聞いてほしい、と頼んだら、突然不機嫌になって面倒くさそうに「その話は何分かかるの?」と言ったのです。当然話を聞いてもらう気は失せてしまったのですが、これは「家族」というコミュニティが機能していない一例です。それともただの愚痴でしょうか。

要するに、病気で辛い思いをしている人が、自分を責めずにいられる社会になってほしいと思うのです。病気をしても堂々と療養生活ができ、当たり前のように「辛い、苦しい、しんどい」と言ってよい社会。誰もが、何の見返りも求めずに病人を助けてあげられる社会。病人が病人として、ちゃんと居場所を持てる社会。そういう社会をつくっていくために、微力ながら尽力したいtotteruです。私が病気をした意味は、そこにあると信じています。